イタリアの新刊 2024年2月その一

 2月9日に福寿草が咲いた。

 毎年この季節になると、花が咲いた日を手帳に書きとめはじめるのだが、じょじょに数週間分まとめて、やがて数ヶ月分まとめてとなり、調子がいいときは10月まで、悪いときなどは7月までで記録が終了。今年はいつまで続くだろう。

 2月上旬に気になったイタリアの新刊(2月より前の刊行のものも含む)。

 

 

Giorgia Sallusti, A Tokyo con Murakami(村上春樹と東京を), Perrone, 26 gennaio 2024

マルセル・プルーストとパリを』『ジェーン・オースターとイギリスを』『グリム兄弟とドイツを』などの「作家と街・国」シリーズの東京版。村上春樹の本をポケットに東京の街を歩く。レストランでオムレツを食べ、神宮球場でスワローズの試合を観戦戦し……。

著者のSallustiさんは、ローマのBookishという独立系書店の店員さん。日本人作家の本をたくさん置いている本屋さんみたい。

Giulia Tellini, Dentro a' dilicati petti(感じ易い胸の中に), Marsilio, 26 gennaio 2024

副題「デカメロンにおける女性の姿」。

デカメロン』の中には、賢く、勇敢で、決断力も独立心もある女性が描かれる一方で、けちでみえっぱりな女性も登場する。ボッカッチョは、さまざまな女性を描き、ポスト・ペストの新しい世界の構築を、語り手たち(7割が女性!)にゆだねた。本書は、デカメロンで語られるお話に登場する、バルトロメア、ジレッタ、ギスモンダ、フィリッパ、グリセルダの五人を取り上げ、彼女たちがどのように描かれたかを分析する。
デカメロンと女性というテーマ、考えたことがなかったけれど、思い出すと女性がいきいきと描かれたいたような記憶がある。
タイトルはデカメロンの序詞から。


Giulio Bollati, Memorie minime(もっとも小さな記憶たち), Bollati Boringhieri, 26 gennaio 2024

出版社Bollati Boringhieri の創設者(正確に言うと、Boringhieriという出版社を買収し、Bollati Boringhieriという出版社を立ち上げた)Giulio Bollatiが生前に残した八つの短編を収録した作品集。2001年に刊行されたものの再刊。Bollatiは、カルヴィーノらと同時期にEinaudiで編集の仕事を始めたらしい。序文はクラウディオ・マグリス。


Maurizio Ferraris, Imparare a vivere(生きることを学ぶ), Laterza, 30 gennaio 2024

2022年12月21日にコロナ陽性、27日にやっと陰性になったと思ったら、マテーラの海岸で左腕を骨折。こんな話から始まる著名哲学者の生についてのエッセイ。確固としたものが一瞬で崩れるという経験から、われわれは生きることをまだ学んでいないのではと自問する。

vivere(生きる), sopravvivere(生き延びる), previvere(あらかじめ生きる?), convivere(ともに生きる)がキーワード。

「生きる」「生き延びる」の違いについては、これまでにもいろいろな人がいろいろに語ってきたが、私の中にもっとも印象に残っているのは、穂村弘『短歌の友人』の中の次の言葉。「我々の言葉が<リアル>であるための第一義的な条件としては、『生き延びる』ことを忘れて「生きる」、という絶対的な矛盾を引き受けることが要求されるはずである。」

Tommaso Giartosio, Autobiogrammatica(自伝の文法), Minimum Fax, 2 febbraio 2024

言葉と生のあいだのつながりを見つけようとするエッセイのようなのだけれど、どんな本なのかはっきりとわからないし、説明が難しそうな本。でも気になる。

エマヌエーレ・トレヴィによって、2024年のストレーガ賞に推薦されたそう。

 

Ginevra Lamberti, Il pozzo vale più del tempo(井戸は時よりも価値がある)Marsilio, 13 febbraio 2024

これもまただいぶややこしそうな小説だが気になる。

8歳のダリア。ある事件ののち、長い入院を経て家に戻るが、家は空っぽで、おそらくみな死んでしまった。ダリアはフィオランナという老女に引き取られ、二つのことを教わる。人類が築いた世界はまだ存在はしているが山中に隠されていること、人の体の埋め方。ダリアはポッツィ村へ移り、そこで屠殺人ビアージョを手伝い、奇妙な婦人オルソーラの付き添いをする。世界の気温は50度まで上がり、植物は枯れ、動物は死ぬ。人が人を喰う。

インスタでキアラ・ヴァレリオが、コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』がアゴタ・クリストフの3部作と出会ったらどうなるか、という言葉で本書を紹介している。

こちらもストレーガ賞に推薦されている。

 

<日本語からのイタリア語訳>

Yū Miri, La casa del gatto, Atmosphere Libri, 26 gennaio 2024

柳美里『ねこのおうち』のイタリア語訳。翻訳はLaura Solimandoさん。


Taichi Yamada, Estranei, Nord, 6 febbraio 2024

山田太一異人たちとの夏』のイタリア語訳。翻訳は A. Martinさん。これまでのお仕事に日本語作品の翻訳はなさそうなので、英語からの重訳か。

 

 

Radio 3, L'isola deserta に出版社アデルフィのチーフエディター ジョルジョ・ピノッティさん出演

 L'isola deserta2月4日の放送回がおもしろかった。出版社アデルフィのチーフエディター、ジョルジョ・ピノッティさんが出演。

 

 編集の仕事に就いたのは1984年。フランコアンジェリ、ガルザンティ、エイナウディと出版社を移り、エイナウディ在籍中にロベルト・カラッソに呼ばれ、アデルフィに移籍。

 編集の仕事のかたわら、自身で翻訳を手掛け、クンデラシムノン、エシュノーズ、イレーヌ・ネミロフスキーのイタリア語訳をアデルフィから刊行。しかし自分は翻訳で食べているわけでもなく、興味がある本を自分が勤めている出版社のために翻訳しているだけなので、自分を翻訳家とは思わない、とのこと。

 

 ピノッティさんと言えばガッダ、というくらいにこれまでガッダの本の編集に注力してきたそう。しかし研究者ではないので、ガッダの専門家と自分のことは呼べない、ガッダを勉強し、それを続けているだけ、とのこと。ここでも肩書きに誠実であろうとするのが印象的。

 2023年には、ガッダ没後50年を記念して、il gaddusという雑誌を創刊。まさにガッダをテーマにした年刊の雑誌で、ガッダの未公開資料や、ガッダについての研究論文を掲載。編集には、ピノッティさんのほか、2022年にガッダの独特な用語219語を収録したGaddabolarioという辞典を編集した文献学者のパオラ・イタリアさんも参加(イタリアさんが登場した2023年5月20日のL;isola desertaもおもしろかった)。

 

 実はピノッティさん、大学では文献学を専攻したそう。ではなぜ出版社の仕事に就いたのか? という質問には、マリア・コルティら文献学の偉大なる先生たちにとても感謝しているのは、「注意力」を教えてくれたこと、と答え、シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』から次の文を引用した。

わたしたちの魂のうちには、肉体が疲労を厭うよりもはるかに激しく真の注意力を厭うものがある。それは肉体よりもはるかにいっそう悪に近いものである。それゆえ、真に注意力を働かせているときにはいつでも、自らのうちなる悪を破壊している。(p.170)

 そして、ピノッティさんは、文献学も、ある種の読書も、注意力を発揮する場であると言う。文献学という学問は、どこにでも活用できる。刊行するかどうかの判断のために原稿を読むとき、翻訳のために読むとき、編集をするとき。

 

 この話がおもしろくて、注意力の話がされている、ヴェイユ『神を待ちのぞむ』所収の「神への愛のために学業を善用することについての省察」をわたしも読んでみた。おもしろいし、耳が痛い。

幾何学に対する素養や天性のセンスがなくても、問題の探求や論証の練習によって注意力を伸ばす妨げとなることはない。むしろそのまったく反対であり、素養や天性のセンスの欠如は、好ましい状況ですらある。(p.164)

 

もっともしばしば、注意力とある種の筋肉的な努力とが混同される。「さあ、注意しましょう」と言われるとき、生徒は、眉間に皺を寄せ、目を凝らし、呼吸を止め、筋肉を強張らせる。二分後、何に注意していたのかと問われても、生徒は答えられない。何にも注意していなかったのである。注意力を働かせなかったのである。筋肉を強張らせたのである。(p.168)

 

自らのうちにこの注意力を成長させずに何年も学業をして過ごす人は、大いなる宝物を失ってしまっている。(p.173)

 

 ヴェイユは、このように注意力を働かせて学業にあたることが、神への祈りの適切な行い方につながると言う。わたしにはキリスト教の神への祈りの話はよくわからないけれど、小説の神様、翻訳の神様の話だったら、少しわかるような気がした。こちらもまた気がするだけだが。

 

*引用は『神を待ちのぞむ』(今村純子訳、河出書房新社、2020年)から行った。

眠れないほど

 シチリア語の辞書をひく必要があり、今日は朝から東京の西にある母校の図書館へ行く。

 作業を終えて、お昼ごはんに近所のパン屋でサンドウィッチを食べ、また都心へ戻る電車に乗る。平日のお昼すぎの車内の空気はぬるくぼんやりとしている。私も車窓から外の景色をぼんやりと眺める。

 カタっと音がして見ると、足元に文庫本が落ちている。左隣の高齢の女性がうたたねして落としたようだ。この陽気、むべなるかな。本の表紙を見ると、『眠れないほどおもしろい紫式部日記』とある。

イタリアの新刊 2024年1月その二

イタリアの出版社モンダドーリのウェブサイトに、ガルシア=マルケスの未刊作品が3月刊行予定との情報を見つけた。イタリア語のタイトルは"Ci vediamo in agosto(八月に会いましょう)"というもの。調べてみると原題は"En agosto nos vemos"で、やはり3月刊行予定(イタリア語とスペイン語で「八月に」の位置が異なるのがおもしろい)。邦訳はいつでるか。

1月後半に気になったイタリアの新刊。

 

Edith Bruck, I frutti della memoria(記憶の果実), La nave di Teseo, 23 gennaio 2024

副題「学校に残す私の証言」。

ハンガリーに生まれたユダヤ人の著者は、第二次世界大戦中に幼くして強制収容所に送られた。生還し、イタリアで作家となり、これまで多くの学校を訪問してホロコーストについての証言を行ってきた。本書では、著者の話を聞いた生徒たちが送ってきた手紙を紹介し、著者がそれらに答える。未来に証言を伝える試み。ちなみに、強制収容所の日々、終戦、世界各国の放浪、イタリアへの移住の経緯については、2021年にヤング部門でストレーガ賞を受賞したIl pane perduto(失われたパン)に描かれていた。読んで、パワーに満ちた人だと思った。

 

Nicola Lecca, Scrittori al veleno(毒入り作家), Mondadori, 23 gennaio 2024

副題「チンクエ・テッレのミステリー」。

サルデーニャの作家Antonina Pistuddiを主人公としたミステリー。かつてイタリアの重要な文学賞を受賞しながらも、現在は地味に創作活動を続けている彼女が、チンクエ・テッレにある国際文学センターに若い作家たちと招待され、滞在中に求めに応じて作ったキノコのリゾットを食べた四人の作家が死んでしまった。彼女が容疑者となったが、ほんとうに彼女が犯人なのか。出版界の様子が皮肉に絵が描かれた作品だそう。

著者自身もサルデーニャ出身で、これまでの作品は、ドイツ語やオランダ語などに翻訳されている。

 

Ilaria Rossetti, La fabbrica delle ragazze(女の子たちの工場), Bompiani, 24 gennaio 2024

第一次世界大戦中、イタリアの軍需製品工場では多くの若い女性が働いていた。そのうちの一つSutter & Thévenoは、スイス資本の会社で、ロンバルディア州の村に工場を建設し、多数の女性労働者を集めた。1918年6月7日に爆発事故が起こり、59人が亡くなった。この実際にあった事件を背景とした物語。Emiliaは事故が起きる日の朝、親元を離れてSutter & Thévenでの勤務を始め…。事故が起きても工場は止まらない。

事件当時ミラノにいたヘミングウェイが短編集でこの事件を取り上げたそう。しかし以降ほとんど忘れられていたこの事件について、著者は証言を集め、そして小説に。 著者はトリノの Scuola Holdenで教鞭をとっているそう。


Giorgio Scianna , Senza dirlo a nessuno(誰にも言わずに), Einaudi, 23 gennaio 2024

父親と二人でロンドンに暮らすManish16歳。特に不満のない暮らしを送っているはずだが、ある夏の朝、誰にも何も言わず家を出て飛行機に乗りローマへ行く。ローマの公園で警察につかまるも、黙秘を続け、ジェノヴァに暮らす母親に連絡が行く。母が新しい夫とその間の子どもを置いて、謎めいた長男のもとに急ぐと、Manishは理由もなくすぐに釈放される。母は、ジェノヴァの元の暮らしに戻ることを選ばず、ローマの公園でほんとうは何が起きたのか、Manishの抱える秘密は何かを突き止めようと決断する。

 

Enrico De Angelis, Enrico Deregibus (Curatore), Luigi Tenco, Lontano, lontano(遠くはなれて), Il Saggiatore, 23 gennaio 2024

1967年、サンレモ音楽祭の当日に28歳でピストル自殺をしたシンガーソングライタールイジ・テンコ。彼の手紙、日記、メモ、インタビューなど、未公開資料をもとに作られた彼の「自伝」。

ルイジ・テンコ、学生時代に名前をよく聞いたけど、若くして亡くなっていたということも、自殺までの経緯も知らなかった。

 

Frediano Sessi , Oltre Auschwitz(アウシュビッツを超えて), Marsilio, 23 gennaio 2024

副題「東欧、忘れられたホロコースト」。

ポーランドのベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ、ヘウムノに設置された強制収容所について。労働ではなく絶滅を目的として設置されたこれらの収容所に送られた者たちが生還する可能性は非常に低く、ここで150万以上もの人が殺された。しかしながらこれらの収容所で起きたことについてはこれまで十分に語られてこなかった。記憶から消し去ろうとする政治的な意志が働いているのだろうか? 本書は、これまで公開されてこなかった資料を豊富に使用し、この空虚を埋めようとする。

 

 

<日本語からイタリア語への翻訳>

Banana Yoshimoto, Che significa diventare adulti? , Feltrinelli, 12 gennaio 2024

吉本ばなな『おとなになるってどんなこと?』のイタリア語訳。翻訳はGala Maria Follacoさん。

 

Yukio Mishima, Stella meravigliosa, Feltrinelli,16 gennaio 2024

三島由紀夫『美しい星』のイタリア語訳。翻訳はLydia Origliaさん。


Mai Mochizuki, Il Caffè della Luna Piena, Mondadori, 23 gennaio 2024

望月麻衣『満月珈琲店の星詠み』のイタリア語訳。翻訳はGiuseppe Strippoliさん。

 

<イタリア語から日本語への翻訳>

マルコ・バルツァーノ『この村にとどまる』新潮社、2024年1月31日

原作は2018年にEinaudiから出たResto qui。2018年のストレーガ賞の最終候補作。作者も作品も、ぜんぜん知らなかった。著者はレオパルディ研究をしていたそう。詩集の刊行も。翻訳は関口英子さん。


以上。

 

イタリアの新刊 2024年1月その一

 

 年末、ちょくちょく「無理しないで」という言葉でおひつじ座に優しくしてくれたしいたけ占いが、年明けからしょうしょう厳しめになった気がする。「『受動』や『受け身』には少し注意してみて」と…。どうしたらいいんだろう…。

 ともかく、1月上旬に気になったイタリアの新刊を能動的に、まとめてみた(1月刊行でないものも含む)。

 

 

Sebastiano Timpanaro, Ritratti di filologi(文献学者たちの肖像), Aragno, 1 dicembre 2023

20世紀イタリアの代表的な文献学者セバスティアーノ・ティンパナーロ(1923–2000)が、6人のイタリアの文献学者(Graziadio Ascoli, Giorgio Pasquali, Nicola Terzaghi, Scevola Mariotti, Franco Munari, Giuseppe Pacella)について書き、雑誌に発表した文章を収録。挙げられている文献学者の中で私が名前を知ってるのはGiorgio Pasqualiだけ(アガンベンの『書斎の自画像』に魅力的な表情の写真が出てきた)だが、気になる。


Michela Murgia, Dare la vita(生を与える), Rizzoli, 9 gennaio 2024

昨年亡くなったミケーラ・ムルジャの遺作。血縁を基本としない家族を実践してきたムルジャが、普通、自然、とみなが思い込んでいるものを問い直すため、最後の数週間に書き、私たちに遺した128ページの文章。

出版社による本書の紹介文に"altrə"という語を見つけて興奮した。ムルジャの葬式でのキアラ・ヴァレリオの弔辞を思い出したから。弔辞の最後、「トゥッテ(tutte,)、トウッティ(tutti)」に続き「トゥットゥ」という言葉が聞こえ、なんだろうと、と調べて判明。ムルジャの出身地サルデーニャの方言から、男女の区別なく表現する言葉としてムルジャが採用したもので、文字で表記する際には"tuttə"としているということを知ったのだった。ここでもaltrəと、"ə"がちゃんと表記されている。この本は読みたい。

ところで、著者紹介に「作品が25カ国以上で翻訳されている」とあるのがやはり気になる。邦訳は未だに一冊もありません。

 

 

Norberto Bobbio, Lezioni sulla guerra e sulla pace(戦争と平和についてのレッスン), Laterza, 12 gennaio 2024

2004年に亡くなった思想家ノルベルト・ボッビオの未刊のテクスト。キューバ危機の1964年、ボッビオは、大学の法哲学の講義を、戦争と平和をテーマにして行った。本書では、人類を一瞬で危機に陥れる武器の使用が可能な時代において、戦争を正当化することが不可能であることが論じられている。残念ながら、今、だいぶアクチュアリティのあるテーマ。

 

Licia Troisi, La luce delle stelle(星たちの光), Marsilio, 12 gennaio 2024

ファンタジーで大人気の著者の初めての推理小説だそう。天文台に一つの死体。手すりから落ちたのか、突き落とされたのか。電話はなく、車は動かず、最寄りの町まで車でも砂漠を超えて二時間かかる。そこにいるのはイタリア、南米、北米、イギリスのの大学院生、学者。彼らが問題を解く。

この作家のことぜんぜん知らなかったが、いろんな言語に翻訳されている。最近あるあるの「中国語、韓国語に翻訳されてるけど、邦訳なし」パターン。まずはイタリア語で読んでみるか。

 

Viola Di Grado, Marabbecca(マラッベッカ), La nave di Teseo, 12 gennaio 2024

国書刊行会『どこか、安心できる場所で』に作品が収録されているヴィオラ・ディ・グラードの新作。シチリアが舞台。クロチルデとイゴルの二人は自動車事故に遭う。クロチルデは怪我を負い、イゴルは意識不明に。クロチルデは、事故を起こした鳥類学専攻の大学生アンジェリカの訪問を受け、二人の間に不思議な関係が生まれる。イゴルが昏睡から目覚めると、二人のバランスは揺らぎ……。マラベッカというのは、シチリアの民話に登場する想像上の生き物だそう。


<日本語からのイタリア語訳>

Ryü Murakami, Audition, 1 dicembre 2023

村上龍『オーディション』のイタリア語訳。翻訳はまたもやGianluca Cociさん。

https://www.atmospherelibri.it/prodotto/audition/

 

Atsuhiro Yoshida, Buonanotte Tokyo, E/O, 10 gennaio 2024

吉田篤弘『おやすみ、東京』のイタリア語訳。吉田さんの本のイタリア語への翻訳は本作が初めてだと思う。いつもの装丁のよさをイタリアで維持するのは難しそうだな。翻訳は Costantino Pesさん。


<イタリア語からの邦訳>

パオロ・ジョルダーノ『タスマニア早川書房、2024年1月10日

2022年にEinaudiから刊行されたTasmaniaの邦訳。翻訳は飯田亮介さん。

昨年末、イタリアのラジオ番組にジョルダーノさんが登場して、本書について語っていた。デビュー作が『素数たちの孤独』で最新作が『タスマニア』。「なぜ数学から地理に?」という質問を受けて、「歳を取ると、とくに男性は、小説から評論に好みが変わる人が多いと思う。自分はその現象がだいぶ若くして起こった」という話をしていたのはおもしろかったが、本書自体については話からだけではよくわからなかった。原爆や環境問題が大きなテーマとなっているようで、広島や長崎という地名が出てくる。


年明けの跳躍

 年が明けて勤務二日目。仕事を終えて家路につく。

 たった二日職場で過ごしただけで、すでに右肩一帯が痛い。なぜ座ってパソコンを見ているだけでこんなにも疲れるのだろうか、家でも座ってパソコンを見てばかりいるのにいったい何が違うのだろうか、などと考えながらぼうっと最寄りの駅から家までの暗い住宅街の道を歩いていると、前方からスーツを着た男の人が全速力でこちらに向かって走ってくる。ぼうぜんと見ていると、男の人はぽーんと高く跳ぶ。着地してスタタと数歩走りまた、ぽーんと跳躍して過ぎ去っていった。

 やっとちゃんと年が明けたしるし、ととらえてみる。

『ふたりの世界の重なるところ』付記の付記

 昨年末、『ふたりの世界の重なるところ』という本を月曜社から出していただきました。

 この本がどういう本かひとことで説明するのが難しくて、相手によって「イタリアの出版社ボンピアーニの創業者の娘さんの回顧録についてのエッセイ」とか「イタリア文学関係のエッセイ」とか「イタリア文学と哲学についての」だとか「詩と小説についての」だとか「20世紀ヨーロッパの日本でこれまであまり知られてなかった作家たちが出てくる」だとか、ついつい説明ぶりを変えてしまいます。

 今回は、そのひとことで言いがたい本の内容ではなくて、形式的な特徴について少し説明をしてみたいと思います。

 

 この本を書きながら思っていたのは、研究者や文学の専門家でない人も読んでみようと思うような本にしたい、ということでした。日々さまざまな営みをする人たちの生活に入り込むような文章にしたい、とはいえ、扱う内容を誰にも親しみ深いものとしてしまったら本末転倒。書き方で工夫をできないかと思いました。

 書き方、というと文体の話になりそうですが、そしてたしかに文章の書き方についてもこだわったことはありますが、もっと見た目にすぐわかるような特徴が本書にはあります。それが「付記」です。

 書きながら、ここには註をつけたほうがいいな、と思うときがたびたびあったのですが、でも註をつけると専門書のような雰囲気になってしまいそう、本文の印象は柔らかいものにしたい、どうにかできないか、と頭を悩ませました。その結果、註にしたらよさそうなことを章末にたんに箇条書きにしてみたのです。そのとき註のような本文に対応する番号をつけませんでした。さらには、本文に対応するところが明確になくても、文章を書きながら思いついたこと、話はそれるけど話したいことも章末に箇条書きで加えました。するとだいぶ箇条書きの項目が増えました。

 本文よりも饒舌なくらいの箇条書き群。原稿を書き終え、最後にこのまとまりをなんと名づけるか迷った末、付記としたのです。

 

 さて、その付記に書いたことですが、たとえば、マンガネッリの作品Hilarotragoediaの読み方を娘さんのリエッタさんに確認した、というものがあります。8行にわたって経緯を示したもので、付記の中では比較的長い方です。しかしこれでも事実をだいぶ圧縮していて、実はけっこうな長旅でした。

 まず、月曜社の小林さんから、Hilarotragoediaのカタカナ表記は「ヒラロトラゴエディア」で問題ないかとの確認がありました。特にそのgoeの部分を「ゴエ」という表記に置き換えることでよいのかという確認でした。とおいむかし、大学でラテン語の授業を受けた記憶ではヒラロトラゴエディアでよいはず。しかしあの頃さして熱心に勉強したわけでなかったことを思うと不安になり、あらためてラテン語の文法書にいくつかあたってみると、oeについては、「オエ」とするもの、「オェ」とするものがありました。ではどっちにするか。こういう場合はネイティブに確認するのが常套手段ですが、ラテン語ネイティブという人はもはやこの世には存在していないわけで、するとマンガネッリがどう発音していたかに依拠するのが次善の策だと思いました。それでYouTubeの動画や、ラジオ番組のアーカイブから、Hilarotragoediaの語が発音されているものがないかと探していくと、マンガネッリ本人のものは見つからなかったのですが、ラジオ番組でDJが発音している音声データ*1と、文芸評論家がこの作品の解説をする音声データ*2が見つかりました。しかしそれらの発音はヒラロトラゴエディアでも、ヒラロトラゴェディアでもなかったのです。どうやらヒラロトラジェディアと発音しているようなのです。

 

 ラテン語のtragoediaは「悲劇」という意味で、イタリア語のtragediaにあたります。イタリア語のtragediaをカタカナ表記するとトラジェディアになります。つまり、ラテン語の単語であるにも関わらず、わたしがみつけた音声データではイタリア語の語として発音されているという状況のようです。うーん、マンガネッリ本人もそんな風に発音していたのかなぁ。そうとは思えないなぁ。やはり本人の音声を探したい。

 そこでダメ元で、ボローニャの市立図書館サラ・ボルサにレファレンスを依頼してみました。世界中の多くの公立図書館では、市民からの質問を受けて、図書館の資料を使って回答をするレファレンスサービスというものを行っています。今回探しているのは音声あるいは動画資料なので、図書館へ問い合わせてもダメだろうなと思いつつ、念の為おこなってみました。ウェブフォームから「ジョルジョ・マンガネッリが、Hilarotragoediaという自分の作品のタイトルを発音している音声データを探しています。所在にお心当たりがあれば教えてください」と質問したのです。

 すぐに返事がありました。「サラ・ボルサは、一般の読書のための図書館なので、アーカイブ資料は所蔵していません。Hilarotragoediaに関するマンガネッリの動画資料などは見つけられませんでした」と。やっぱりね。しかし、続きがありました。「パヴィア大学にジョルジョ・マンガネッリの手稿を集めたセンターがあるので、そちらにお問い合わせください」と。そしてセンターに所属すると思われる研究者のメールアドレスがついていました。

 え! と驚きました。こんなふうに研究者の連絡先を教えてもらえるとは。そしてさっそくそちらに連絡してみますと、「自分ではわからないから、フランクッチ教授とマンガネッリの娘さんのアメリア・マンガネッリさんに訊いてみてほしい」との返事があり、CCにお二人の連絡先がありました。こうして、お二人にお尋ねしてマンガネッリ本人がどのように発音していたかを確認することができたのでした。どのように発音していたかは、『ふたりの世界の重なるところ』p.58でご確認ください。

 以上、付記の付記でした。

 

 

*1:

Seminario su Hilarotragoedia di Manganelli 冒頭から7秒あたりhttps://francescomuzzioli.com/2021/04/29/seminario-su-hilarotragoedia-di-manganelli/ (last access on 2024.1.3)

*2:

Manganelli 100  冒頭から8分56秒あたり

https://www.raiplaysound.it/audio/2022/11/Pagina-3-del-15112022-01692ce6-157c-452d-b1fe-6ca1e49ea231.html (last access on 2024.1.3)