Radio 3, L'isola deserta に出版社アデルフィのチーフエディター ジョルジョ・ピノッティさん出演

 L'isola deserta2月4日の放送回がおもしろかった。出版社アデルフィのチーフエディター、ジョルジョ・ピノッティさんが出演。

 

 編集の仕事に就いたのは1984年。フランコアンジェリ、ガルザンティ、エイナウディと出版社を移り、エイナウディ在籍中にロベルト・カラッソに呼ばれ、アデルフィに移籍。

 編集の仕事のかたわら、自身で翻訳を手掛け、クンデラシムノン、エシュノーズ、イレーヌ・ネミロフスキーのイタリア語訳をアデルフィから刊行。しかし自分は翻訳で食べているわけでもなく、興味がある本を自分が勤めている出版社のために翻訳しているだけなので、自分を翻訳家とは思わない、とのこと。

 

 ピノッティさんと言えばガッダ、というくらいにこれまでガッダの本の編集に注力してきたそう。しかし研究者ではないので、ガッダの専門家と自分のことは呼べない、ガッダを勉強し、それを続けているだけ、とのこと。ここでも肩書きに誠実であろうとするのが印象的。

 2023年には、ガッダ没後50年を記念して、il gaddusという雑誌を創刊。まさにガッダをテーマにした年刊の雑誌で、ガッダの未公開資料や、ガッダについての研究論文を掲載。編集には、ピノッティさんのほか、2022年にガッダの独特な用語219語を収録したGaddabolarioという辞典を編集した文献学者のパオラ・イタリアさんも参加(イタリアさんが登場した2023年5月20日のL;isola desertaもおもしろかった)。

 

 実はピノッティさん、大学では文献学を専攻したそう。ではなぜ出版社の仕事に就いたのか? という質問には、マリア・コルティら文献学の偉大なる先生たちにとても感謝しているのは、「注意力」を教えてくれたこと、と答え、シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』から次の文を引用した。

わたしたちの魂のうちには、肉体が疲労を厭うよりもはるかに激しく真の注意力を厭うものがある。それは肉体よりもはるかにいっそう悪に近いものである。それゆえ、真に注意力を働かせているときにはいつでも、自らのうちなる悪を破壊している。(p.170)

 そして、ピノッティさんは、文献学も、ある種の読書も、注意力を発揮する場であると言う。文献学という学問は、どこにでも活用できる。刊行するかどうかの判断のために原稿を読むとき、翻訳のために読むとき、編集をするとき。

 

 この話がおもしろくて、注意力の話がされている、ヴェイユ『神を待ちのぞむ』所収の「神への愛のために学業を善用することについての省察」をわたしも読んでみた。おもしろいし、耳が痛い。

幾何学に対する素養や天性のセンスがなくても、問題の探求や論証の練習によって注意力を伸ばす妨げとなることはない。むしろそのまったく反対であり、素養や天性のセンスの欠如は、好ましい状況ですらある。(p.164)

 

もっともしばしば、注意力とある種の筋肉的な努力とが混同される。「さあ、注意しましょう」と言われるとき、生徒は、眉間に皺を寄せ、目を凝らし、呼吸を止め、筋肉を強張らせる。二分後、何に注意していたのかと問われても、生徒は答えられない。何にも注意していなかったのである。注意力を働かせなかったのである。筋肉を強張らせたのである。(p.168)

 

自らのうちにこの注意力を成長させずに何年も学業をして過ごす人は、大いなる宝物を失ってしまっている。(p.173)

 

 ヴェイユは、このように注意力を働かせて学業にあたることが、神への祈りの適切な行い方につながると言う。わたしにはキリスト教の神への祈りの話はよくわからないけれど、小説の神様、翻訳の神様の話だったら、少しわかるような気がした。こちらもまた気がするだけだが。

 

*引用は『神を待ちのぞむ』(今村純子訳、河出書房新社、2020年)から行った。