Radio 3, L'isola deserta に日本文学の翻訳家ルイザ・ビエナーティさん出演

 Radio 3のお気に入りの番組、L'isola deserta(無人島)の九月一六日の放送を聞いたら、ヴェネツィア大学の日本語・日本文学の教授であり、翻訳家でもあるLuisa Bienatiさんが登場していた。

 かねてより、日本におけるイタリア文学の翻訳に比べて、イタリアにおける日本文学の翻訳の方がだいぶ盛ん、という印象があるのだが、その背景がわかるような話があるかなぁと思いながら聞いた。おもしろかったので、以下に話の要点をかいつまんでみる。

 

・東洋の言語を勉強したくてヴェネツィア大学に入った。日本語にするか中国語にするか決めかねたので、大学では無理だからと禁じられていたけれど、日・中両方の勉強を一年あまり続け、その上で日本に決めた。その後日本の中でも文学を勉強することを決め、卒論を書くときに谷崎潤一郎をテーマにすることにした。

・卒論は、論文執筆ではなくて、作品の翻訳をすることにした。谷崎潤一郎の短編「アヴェ・マリア」を選んだ。当時この作品は欧米の言語に翻訳されていなかった。

・当時ヴェネツィア大学の教員だったAdriana Boscaroの影響もあって、谷崎潤一郎にますます惹かれ、谷崎のマイナーな作品、特に一九二〇年代の作品の翻訳を進めた。

・八〇年代のイタリアは、英語やフランス語やドイツ語に翻訳された作品を追いかけて翻訳するということが一般的には多かった。しかし自分が卒論で翻訳した「アヴェ・マリア」がフランス語に翻訳されたのはだいぶあとのことで、これは当時のイタリアの翻訳事情を考えると例外的。

・イタリアでの日本文学の翻訳は、個人的な興味によって進んできたところが大きい。谷崎の翻訳が進んだのは、谷崎を翻訳したいと思う人がいたから。

・しかしまだイタリア語に訳されていない谷崎作品はもちろんたくさんある。特に随筆の翻訳は進んでいない。日本語の随筆を、西洋の人間に伝わるように翻訳するのは難しい。

 

 このあたりまで聞いて、卒論が作品の翻訳でOKというのがうらやましい、大学卒業時に翻訳をやってそのまま翻訳を続けられたというのがうらやましい(私は大学卒業時に翻訳をしようなんて思いもしなかったけど)、といろいろうらやましく思ったのだが、一番うらやましいと思ったのは、

il lavoro di studiosi della letteratura non è disgiunto mai da un interesse proprio per il testo letterario e per l'autore

(文学研究者の仕事というのが、作品のテクストと作家への興味からけっして切り離されていない) 

というところで、私は「文学研究者」というところを「翻訳者」と読みかえて聞いたが、イタリアでは日本の各作家について、その作品が一つ二つとぽつぽつ翻訳されるのではなくて、代表作からそうでない作品まで継続的に翻訳される印象があったり、こんな作家まで目配りしているのかというような、現在日本でさほど有名ではない過去の作家の作品もときどき翻訳されているのは、このように研究者・翻訳家の興味による選択が力を持っているからだろうか。逆に日本でのイタリア文学の翻訳に単発的な印象があるのは(パヴェーぜやカルヴィーノ、タブッキなどの例外をのぞき)、他の言語の翻訳状況が大きく物を言うからだろうか。

 しかし興味と仕事が結びつくなんて国を問わず理想的なことであって、日本でもそれがうまくいくのであればもちろんそうしたい、でもそうもいかないというのは、売れるかどうかというところがネックになっているのであろうし、なぜイタリアの出版界はそこを乗り越えられているのか、あるいは気にせず翻訳出版を続けていられるのかは依然として不明だった。日本文学はそれなりに売れている、ということなのだろうか。

 

 このあと、Bienatiさんは、番組のパーソナリティーのChiala Valerioに無人島に持っていく本・映画・音楽を問われ、

本:井伏鱒二『黒い雨』
映画:黒澤明羅生門
音楽:坂本龍一「12」

と答えていた。

 井伏鱒二は、これまでにない状況に陥った者は漂流民であると言っていたそうで、Bienatiさんはこのラジオ番組の名前L'isola deserta(無人島)にかけてそのことを持ち出し、井伏の漂流民の定義でいけば、原爆の被害者もショアの被害者も漂流民であり、原爆をテーマにした原民喜の「コレガ人間ナノデス」という詩を大学の授業で読み上げると、生徒たちが頭に思い浮かべるのは、強制収容所の経験を書いたプリーモ・レーヴィの『これが人間か』なのだ、と話が続いた。

 私はレーヴィの『これが人間か』は読んだことがあるけれど、『黒い雨』も「コレガ人間ナノデス」も読んだことがなく、こういうときにイタリア文学を読む前に日本の作品を読まなきゃと、といつも思うのだが、しかしこうやってイタリア人から日本文学のことを教わるのは、恥ずかしい気持ちになりながらも、なんだか嬉しい。

 

 途中、Bienatiさんは、nipponistaとiamatologoの違いを質問されていた。どちらの言葉も私はなじみがない。特に後者は聞いたこともない。小学館のイワチューをひいてみると、意外にも後者は立項されていて「日本学者」とあり、前者は立項されていない。Bienatiさんは、iamatologoは自分よりも前の世代に使われていた言葉だと思う、でも自分はいずれの語も好きではなくて、studiosa di letteratura giapponeseというのがしっくりくると言っていた。

 

 Bienatiさんは出版社Marsilioで、日本文学のシリーズの編纂にたずさわっているそう。『黒い雨』の翻訳はここから出ている。こういうシリーズがあるっていうのが、やっぱりうらやましい。